『道元の冒険』、すごくおもしろかった。
曹洞宗の開祖・道元の半生が歌や劇中劇で語られていく一方で、ところどころで現代の留置所に拘留されているらしい男が出現し、2人の男の夢と夢が奇妙に絡み合っていくという、盛りだくさんすぎて頭がパンクしそうな芝居。でも楽しい。 いろいろなエンターテイメント要素がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、雰囲気としては『藪原検校』に似ているが、あれほどエグくないから純粋に楽しめる……と思って油断していたら、最後に爆弾を喰らった。あなどれない。 井上ひさしお得意の言葉遊びも満載。枕詞で話す公家のところとか、小説のタイトルで人生を語るところとか、言葉の達人っぷりが猛烈に発揮されている。機会があったら戯曲でじっくり読んでみたい。「油断一秒怪我一生」の中国語的解釈には笑った。よくもあんなおもしろいことを考えつくものだ。 そんな具合にあっちこっちにすっ飛んで、いったいどこにどうやって着地するのかと思っていたら、なんだかとんでもないところに落ちてきて、ちょっと(いや、かなり)驚いた。あれって要するに、時代の先を行く意見を唱える者は今も昔も「狂気」として片付けられてしまう、という解釈でいいのだろうか。いまひとつ自信がないので、できればもう一度観たい。また近いうちに上演してくれないでしょうか。 ▲
by csiumd
| 2008-07-24 15:27
| 芝居
ミュージカルの『レ・ミゼラブル』。小学生のころ、あまりにも『ああ無情』にはまっていた私に呆れた母に連れていってもらって以来、2、3回は見ているような気がするが、今年は日本初演20周年ということなので、せっかくだからもう一度観にいくことにした。
だいぶ駆け足(というか猛ダッシュ)の感はあるものの、あの長大な小説を一晩で演じられる長さにまとめたのは、それだけでもたいしたものだし、舞台装置はくるくる回って楽しいし、音楽もいいし、役者たちの歌も迫力あるし、つくづくよくできたミュージカルだと思う。 ただ、いつもなんとなく腑に落ちないのは、ラストのジャン・バルジャンが息を引き取るシーン。ここで、ファンティーヌはともかく、エポニーヌが出てくる必然性がどうもわからない。エポニーヌも「哀れな人」のひとりだから? でもそれを言ったら、ジャベールだってガブローシュだってグランテールだって、みんな「哀れな人」だ。 話はそれるが、この小説をはじめて読んだときから、ジャベールが哀れで哀れでたまらなかった。私は警察というものが全般的にあまり好きではないので、ジャベールのようないかにも警官然とした登場人物に肩入れすることはめったにない。にもかかわらず、なぜかジャベールが気になって仕方がない。あんたまちがってないよ! なにも死ぬことないよ! と言ってやりたくなる。まあ、そんなこと言ったところで聞く耳持たないだろうけどさ、ああいう人は…… それはともかく、話をラストの場面に戻す。私としては、死んでゆくジャン・バルジャンを迎えに来るのは、ファンティーヌでもエポニーヌでもなく、ミリエル司教であってほしい。小説の臨終場面には、最期が近いことを悟って「司祭さまを呼びましょうか?」と訊く医者に、ジャン・バルジャンが宙を見つめながら「もう来ています」と答えるくだりがある。ここは『レ・ミゼラブル』のなかでも一、二を争うくらい好きなところで、いつもつい泣いてしまうポイントでもある。ほんとに、ここは何度読んでも胸にくる。 ジャン・バルジャンは、ほんとうにほんとうにつらい人生を送ってきた。だからせめて最期に、夢でも幻でもいいから、ほかならぬミリエル司教の口から「あなたは立派に生きた」と言ってあげてほしい。それくらいの救いはあってもいいんじゃないかと思うのだけど、それって甘すぎるだろうか? ……というようなことを考えていたら、久しぶりに『レ・ミゼラブル』を通しで読みたくなった。長いうえに回りくどいから、読む時間と気力を捻りだすのにけっこう苦労するのだけど、それだけの価値はある小説だと思う。 ▲
by csiumd
| 2007-06-28 14:08
| 芝居
二度目の『藪原検校』。前回観たものとは演出家もキャストも違う。
演出が変わると同じ芝居がどれほど変わるものなのか、というのが今回の個人的な注目点のひとつだったけど、正直なところ、それほど大きく変わった感じはしなかった。あれだけ台詞が強烈で、作中に組み込まれている仕掛けや工夫がえらく手の込んだ芝居だと、多少の演出の変化では変わりようがないのかもしれない。 ただ今回は、三段斬りがやけにリアルになっていて、恐ろしさのあまり直視できなかった。まあ、斜めに見たところで恐ろしさに変わりはないのだけど。 それから、保己市に対する印象がかなり違った。前回観たときには「この人、とんでもない悪党だな」と思ったけど、今回の舞台を見たら、「あれ? もしかしてそんなに悪党でもない?」という気がしてきた。このへんは、演出の違いというよりは、役者の演じ方の問題なのかもしれない。もしくは、見る側の(つまり私の)意識が変わったか。 ともあれ、やっぱり『藪原検校』は文句なしにおもしろい。芝居のいろんな要素を心ゆくまで堪能して、もうおなかいっぱい、といったところ。杉の市の早物語だけで白飯三杯はいける。 ▲
by csiumd
| 2007-05-31 16:20
| 芝居
木山事務所の『やってきたゴドー』。タイトルを見ればわかるとおり、ついにゴドーがやってきた、という話。
別役実独特の「なんだか妙におかしい」雰囲気が全開の芝居。ゴドーが「ゴドーです」って言うだけで、なんかもう笑える。おもしろかった。 別役実の芝居には、話がつうじてないとか、会話がかみ合ってないとかいう状況がよく出てくるけど、この芝居はもう、最初から最後までぜんぜんかみ合ってない。非生産的な会話がぐるぐるぐるぐると続く。 で、さんざん笑っていたかと思えば、ふと不安みたいなものが流れてきて、なんとなく落ち着かない気分になったりする。このへんの笑いと苦味のバランスがたまらない。すごく好き。 なんでもいま、「別役実祭り」なるものが開催されているようで、4月に『壊れた風景』と『場所と思い出』の2本が上演されるらしい。ものすごく観に行きたいけど、4月は死ぬほど忙しくなりそうだから、時間がとれるかどうか……。でも行きたい。芝居って、観られるときに観とかないと、次いつやるかわかんないし。やっぱ行こうかな。 ▲
by csiumd
| 2007-03-30 12:58
| 芝居
こまつ座の『私はだれでしょう』。
戦争で生き別れた人を探すラジオ放送「尋ね人」の制作室を舞台に、記憶を失ったサイパン帰りの軍人やら、日系人の米軍将校やら、組合運動に燃える元特攻隊員やらが入り乱れる音楽劇。 米軍占領下では、アメリカに都合の悪いことはいっさい放送できない。たとえば、原爆の「げ」の字でも言おうものなら、占領を妨害したとして逮捕される。広島や長崎からの投書を放送したい制作室の面々は、なんとか知恵を絞って放送に乗せようとするわけだけど、このへんの権力によるメディアへの圧力は、NHKへの命令放送やなんかが取り沙汰されたりして「地獄に逆戻り」(放送用語調査主任の弁)している感がある現状を思うと、ものすごくタイムリーな題材だ。 でも、この芝居でそれ以上にがつんときたのは、「負け続けて、押しつぶされて、石になって、積み重なる」というフレーズ。正確には覚えてないけど、だいたいこんな感じだった。これを聞いて、そっか、負けてもいいんだ、と思った。なんというか、目からウロコが落ちたような気がした。 このフレーズは劇中歌のなかに出てくる。歌と踊りって、なんだかんだいって無条件で楽しいから、音楽劇はわりと好きだけど、この歌は楽しいだけではない音楽劇の底力のようなものを感じさせた。舞台からの圧力でイスに押し付けられるような感覚。あれは歌だからこその迫力だったと思う。 6時半開演で、終わったのは10時近く。相当長い芝居だったはずなのに、全然長く感じなかった。おもしろかった。 しかし、よくよく記憶をたどってみると、前回のこまつ座公演でもらったチラシには、今度の新作はケストナーが題材って書いてなかったっけ? まあ、井上ひさしの新作だから予定どおりにはいかない気はしてたし、おもしろかったから全然かまわないんだけど、でもやっぱりケストナーがらみの井上芝居もいつか見てみたい。 ▲
by csiumd
| 2007-02-24 10:25
| 芝居
文学座の『シラノ・ド・ベルジュラック』を観た。
『シラノ~』は、この話を題材にしたものとかパロディとかをあちこちで目にするので、筋だけはぼんやりと知っていたけれど、せっかくの機会なのでちゃんと観てみようと思ったのだ。 恋敵のラブレターを代筆して、報われない恋に苦しむ醜い男の哀れな物語……というのが私の理解していた『シラノ~』のおおよその筋。けど、この芝居を観たら、この状況って、シラノよりもクリスチャンのほうがみじめなんじゃないの? という気がした。「美男子」という設定のわりに、クリスチャンがいかにもお人好しっぽい顔をしてたから、そう感じるだけか? だいたいロクサーヌって、なんてひどい女なんだ。やたらと美辞麗句を求めるのもどうかと思うけど、クリスチャンの辞世の手紙が実はシラノの書いたものだったと知ったときの「この手紙はクリスチャンとはなんの縁もない」という主旨の発言は、あまりにひどい。それじゃクリスチャンが哀れすぎる。でも、ふたりがかりで騙され続けたロクサーヌも、よく考えたらけっこう哀れだ。あまり責められないかもしれない。 それにしてもこの芝居、古典だと思って油断(?)していたら、ものすごくおもしろかった。そりゃ、おもしろくなきゃ現代までなんて残らないだろうから、当然と言えば当然なんだろうけど。 余談だが、この日はじめて、「北千住」の読みが「きたせんじゅ」だったことを知った。なんでわざわざ「じゅ」で止めるのさ。だから「きたせんじゅう」で一発変換できなかったのか……。ちょっとした衝撃だった。 ▲
by csiumd
| 2006-11-17 19:58
| 芝居
このところ巻き起こっている(個人的な)角野卓造ブームにのって、文学座『ゆれる車の音』へ。おもしろかったー。最初から最後まで笑いっぱなし。
なにかっていうとすぐ泣く情けないテキ屋が、女房に尻を叩かれて、20年前に追い出されたショバを奪還すべく故郷に乗り込んだのはいいけれど、故郷の町はすっかり面変わりしていて……という話。 角野卓造演じる泣き虫のテキ屋をはじめ、元愚連隊のぎっくり腰じいさんとか、テキ屋あがりの警官とか、オヤジのみなさんが情けないやら可笑しいやら哀しいやらで、とにかく楽しませてもらった。 テキ屋の口上といえば、渥美清のちゃきちゃきしたやつをまず思い浮かべるけども、この芝居の、威勢のいいなかにもどこかのんびり感がある口上もすごくよかった。こういうリズムのある語りって、好きなんだよな。各種の名口上を収めたCDとかないかな。すごくほしい。 ちなみにこの芝居、テキ屋の話というだけあって、ロビーにくじびきの露店(?)が出現していて、鐘がじゃらじゃら鳴っていた。私が見物していたときには、ちょうど一等の伊勢海老が出ていた。こういう演出って、いいよね。 ▲
by csiumd
| 2006-09-22 19:37
| 芝居
こまつ座の『紙屋町さくらホテル』。まえに一度観て、ぜひとももう一度観たいと思っていた芝居。観たいときにすぐ観られないのが、芝居のもどかしいところだ。それがいいところでもあるんだけど。
思えば、私が本格的に芝居にはまったきっかけは、この『紙屋町さくらホテル』だったのかもしれない。 たとえば、最後の巣鴨プリズンの場面。海軍大将と元陸軍のGHQ職員が言い合うときの緊張感は、ものすごい。セリフの間でぴんと空気が張りつめて、その場にいる観客全員が息を止めているようなあの空気は、映画でもテレビでも小説でも味わえない。演劇でなければ絶対に味わえないものだ。 『紙屋町さくらホテル』には、演劇への愛があふれている。みんなほんとうに楽しそう。この劇を観ると、芝居をやりたくなる。中学か高校のころに観ていたら、役者を志していたかもしれない。劇中劇の稽古をする登場人物たちも楽しそうだし、それを演じている役者さんたちも楽しそう。 でもそのぶん、彼らの直面するむごい現実や運命には胸をえぐられる。大島先生が絞り出すように語る教え子の話は、いま思い出しても泣きそうになる。なによりも、最後に歌がふっつりと途切れたときのつらさはこたえる。自分の体のなかの何かも一緒に断ち切られたような、そんな衝撃を覚える。 この『紙屋町さくらホテル』、来年の春の公演がすでに決まっているらしい。観たばっかりだけど、また観たい。何度でも観たい。 ちなみに、もらったチラシによれば、次回のこまつ座公演は新作だそうで。しかも、題材はケストナー。井上ひさしとケストナーの組み合わせなんて、想像するだけでわくわくする。こっちも楽しみだ。 ▲
by csiumd
| 2006-08-21 21:21
| 芝居
井上ひさしの東京裁判三部作の三作目『夢の痂』。
戦争責任がうやむやになった原因を日本語の文法から読み解く、という変わった切り口。変わっているのに、すごくわかりやすいし、説得力がある。すとんと腑に落ちた。 日本語には「主語」が少ない。これは翻訳をしていると、実感としてものすごく感じる。日本文にするときには、英文にある主語の大部分を省略しないと、やたらとうるさい日本語になってしまう。 日本語は主語を省略しても、たいていは意味が通じる。言ってみれば、主語、つまり「私」をうまいこと隠す仕組みがあるわけだ。 で、どこに隠れるのかというと、それは「状況」のなか。そのときどきの「状況」が主語となり、「主語」=「述語の責任を負うべき者」が曖昧になってしまう、ということなのだろう(と思う。まだ考えが整理できてない)。 東京裁判では、戦中に「主語」だった者の罪が問われなかったために、「主語」に隠れていた個々の「私」も責任を取らないまま、一億総責任逃れみたいな状態になってしまった。 この「状況」に「私」が隠れるという傾向は、なにも60年まえに限ったことではなく、いまにいたるまで変わっていない気がする。それが日本語(日本人)の特性だから仕方ない、と言ってしまえばそれまでだけど、これでまたいろいろなことがうやむやになって、かつてのような恐ろしい事態にならないともかぎらない――とまあ、そんなことをあれこれ考えさせられる芝居だった。 それにしても、角野卓造、最高。徳次が天皇になりきるところとか、おもしろすぎる。この三部作を見るまでは、渡る世間の人、くらいの認識しかなかったけど、ここ数年、私のなかで猛烈な角野卓造ウェーブが来ている。今後も要注目。 ▲
by csiumd
| 2006-07-12 19:24
| 芝居
こまつ座公演『兄おとうと』を観た。「民主主義の父」吉野作造と、その弟でばりばりの官僚でもある信次という、思想的立場を異にする兄弟の物語――なんて書くと、すごく堅くて小難しそうな話に見えるのに、ところがどっこい楽しい。これだから井上芝居はやめられない。
井上ひさしという人は、人間を描くのがほんとうにうまいと思う。いままで吉野作造のことなんて、教科書に載ってるいかついおじさん、くらいにしか思ってなかったけど、距離感がぐんと縮まった。堅物っぽさのなかにお茶目さの混ざった辻萬長の演技もツボだった。 脇役が主役と同じくらい(もしかしたらそれ以上に)大切にされているところも好き。登場人物ひとりひとりに作者の愛情が注がれている感じで、みんな生き生きしている。貧乏のあまり盗みを働いてしまった少女とか、説教強盗とか、娼館の女主人とか、ついつい親身になって観てしまう。 それにしてもこの話、明治から昭和初期にかけての話なのに、いまの時代にあまりにも符合していて、ドキっとするところがいっぱいあった。吉野作造の死後、彼が危惧していたとおり、日本という国は「地獄に引きずり込まれて」いくわけだけど、いまから10年後、20年後はどうなっているのでしょうか。また「地獄に引きずり込まれて」なきゃいいけど。同じ過ちを繰り返すほどバカじゃないでしょ、と一笑に付せないムードがいまの世の中にはあるような気がする。 ほんとに、三度のごはんと火の用心は大事だよね。 ▲
by csiumd
| 2006-01-23 20:48
| 芝居
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