カテゴリ:本( 68 )

Last Night in Twisted River

ジョン・アーヴィングの『Last Night in Twisted River』。ここ数作のアーヴィングの小説のなかでいちばん好きだ。すごくおもしろかった。例のごとく長い本だけど、ぜんぜん長さを感じない。というか、もっと長くてもいい。読み終わるのがもったいなかった。

個人的には、アーヴィングの小説のいちばんの魅力は、登場人物たちだと思う。肉付けがうまいというか。ここ最近のアーヴィングの小説は、いまひとつ登場人物に肩入れできない作品が続いていたが、今作は登場人物たちが本領を発揮した。

主人公のダニエルはもちろん(というか、それ以上に)、父のドミニクとその友人ケッチャムの造形がいい。このふたり、すごく好きだ。とくにケッチャムなんて、現実の世界にいたらどう考えても苦手なタイプなのに(こんな人が実際にいたらたいへんだけど)、アーヴィングの手にかかると好きにならずにいられないのは、不思議としかいいようがない。アーヴィング・マジック、おそるべし。

ところで、この小説には「she bu de」という中国語が出てくる(漢字だとたぶん「舎不得」)。別れのときに使う言葉で、英語にすると「I can't bear to let go」というような意味らしい。日本語だと、「離れがたい」とか「手放しがたい」といったところか。この言葉が、いかにもアーヴィングらしい印象的な使われ方をしていて、私はここでまんまと泣かされてしまったわけだけど、あの場面でこの言葉とあのフライパンを出すのは、ほとんど反則技だと思う。ずるい。泣かないわけがない。

泣かされてしまったから言うわけではないが、アーヴィングの語りはほんとうにうまいと思う。作者の思惑どおりに笑って、ハラハラして、泣いた気がする。完全に作者の手のひらの上で転がされていた感じ。まあ、それが楽しいんだけど。ストーリーテラーとは、まさにこういう人のことを言うのだと思う。

こういうのを読むと、小説を好きでいてよかった、と思う。幸せ。
[PR]
by csiumd | 2010-01-10 16:54 |

サラエボのチェリスト

スティーヴン・ギャロウェイの『サラエボのチェリスト』。心を深く揺さぶられる、ほんとうにすばらしい小説だった。

舞台はボスニア内戦時の包囲戦のさなかのサラエボ。パン屋の行列を襲った迫撃砲弾の犠牲になった22人のために22日間〈アルビノーニのアダージョ〉を弾きつづけるチェリストと、包囲されたサラエボの街で生きる男女3人の物語。

射撃の腕を買われて心ならずも防衛側の狙撃手になったアロー。家族のために遠方のビール工場まで水汲みに出かけるケナン。妻子を疎開させてひとりサラエボに残ったドラガン。それぞれの毎日を送る3人が、電気も水も止まり、砲弾が飛び交い、交差点を渡るのにも狙撃に怯えなければならない極限状態のなかで、チェリストの弾く〈アルビノーニのアダージョ〉に出会う。

〈アルビノーニのアダージョ〉は悲しい旋律の曲だけれど、作中人物が「悲しい曲だけど、聴いて悲しくなるわけではない」と言っているように、この曲が流れるときに人びとの心に生まれる感情は、けっして悲しみではない。チェリストの音色から生まれるのは、極限の暮らしのなかで失われかけていた、生きる幸せや希望や人間らしさだ。亡くなった人を悼む以上に、生きている者のぎりぎりで崩れそうな心を支える力を持っている。

チェリストの弾く〈アルビノーニのアダージョ〉に触れ、ある者は同じアパートに住む偏屈な老女に水を運び、ある者は民間人を撃つことを拒み、ある者は狙撃される危険をおかして交差点に放置されたままの死体を移動させる。

その行動のひとつひとつは、大局から見ればどれもごく些細なことかもしれない。それで戦争が終わるわけでもないし、平穏な生活が約束されるわけでもない。乾燥した砂漠に落ちた一滴の水くらいの力しかないかもしれない。それでも、そのひとつひとつが集まって大きな流れになり、いつかはそれが大地を潤すのではないか。そんな希望を抱きたくなる小説だった。

これを書いているいまも、〈アルビノーニのアダージョ〉が頭のなかで響いている。チェリストが最後に流した涙が、二度と流されることのない世界を心から望む。
[PR]
by csiumd | 2009-02-18 14:46 |

神器――軍艦「橿原」殺人事件

ずいぶんと久しぶりのような気がする奥泉光の新作『神器――軍艦「橿原」殺人事件』(上、下巻)。『グランド・ミステリー』と『浪漫的な行軍の記録』を合わせてスケールアップさせたような内容。この人の小説ではおなじみのロンギヌス物質なんかも登場し、雨宮博士の名前もちらっと出てくる。奥泉光独特のユーモラスな語り口も楽しめるし、これまでの集大成的な大作という印象を受ける、たいへん読みごたえのある作品だった。

時は太平洋戦争末期、軍艦「橿原」で起きた殺人事件をめぐる物語。ミステリー好きの上等水兵の一人称で語られる序盤は、ところどころで妙な雰囲気がまぎれこんでいるものの、おおむね軍記仕立てのミステリーといったおもむきで進んでいく。

ところが上巻の後半、ドッペルゲンガーやら鼠になった人間やらが出てくるあたりからおかしくなりはじめて、下巻の終盤はもう完全に狂気とカオスの坩堝。ミステリーだと思って読んでいたら、いつのまにか周囲の世界が崩れて、気がついたらひずみに引きずりこまれていた、という感じだ。

序盤の「殺人事件」の謎解きは、終盤の混乱のなかでいちおう提示されるのだが、謎が解けた爽快感はまったくない。というのも、それを取り巻くカオスがあまりにも大きすぎて、もはやそんな瑣末な「謎」など問題ではなくなってしまうからなのだが、そこがとてもおもしろいし、すごいと思う。

「橿原」は最終的に狂気とカオスに飲みこまれるわけだが、それをしょせんフィクションだと言いきれないのがおそろしい。まるで、いまの日本が「橿原」で、破滅に向かって海原をひたすら進んでいるような錯覚に陥る。読んでいるあいだは、複雑にねじれる展開についていくのが精一杯であまり考えをめぐらせる余裕もないのだが、読み終わってからふと反芻したときに、第2次大戦の犠牲の意味とかいまの日本の姿とか集団の狂気とか、そんなことを考えさせられる。

物語はクライマックスで狂気をきわめた感があるのだけども、それでも「生き残る者たち」と題されたエピローグには希望が残されている。雲間から一条の光が差すようなこの幕切れは、とても深く心に響く。ああ、読んでよかった、と思わせるラストシーンだった。
[PR]
by csiumd | 2009-02-05 15:57 |

森に眠る魚

角田光代の『森に眠る魚』。『八日目の蝉』に劣らぬ傑作だと思う。

幼い子どもを育てる5人の母親たちの物語。なんの変哲もない、仲の良い「ママ友」たちの関係が、「お受験」をめぐる憶測やちょっとした誤解、ものの見方の相違により、少しずつ変質し、歪んでいき、やがて……という話。

ちょっとしたことが少しずつ積み重なっていき、後半になって一気に崩れていく展開は見事だった。とくに、手に汗握るクライマックスの凄みは圧巻。息をするのも忘れる、という感覚をひさびさに味わった。

裕福な暮らしを手に入れた千花にしろ、理解ある夫のいる瞳にしろ、この小説に出てくる母親たちは、客観的に見れば5人ともけっして不幸ではないと思う。それぞれ悩みや心の傷はあるが、そんなのは誰にでもあるものだし。不幸ではないはずなのに幸せになれない、しかもそれがなぜなのか自分ではわからない。そういう正体不明の曖昧な焦燥が、やけにリアルで身につまされる話だった。

角田光代の小説を読むと、人と人とはけっしてわかりあえないものなのだと感じることが多い。そのうえ、できれば目を逸らしたい醜い部分を容赦なくつきつけてくる、けっこう恐ろしい小説でもある。そんなふうにかなりシビアで残酷な内容なのに、全体としてはどうにかプラスの方向をむいているのが、この人の小説のおもしろいところで、個人的にも好きなところであると思う。

今作は幼い子どもの母親たちが主人公だったが、私には子育ての経験はないので、登場人物たちの悩みや葛藤をわりと客観的に見ていた部分もある。実際に子どもがいる母親たちは、この本を読んでどんな感想を持つのだろうか。ぜひともきいてみたいところだ。
[PR]
by csiumd | 2009-01-05 19:11 |

マミー?

甥っ子の誕生日プレゼントを買おうと絵本売り場をふらふらしていたら、モーリス・センダックが絵を描いた仕掛け絵本『マミー?』に出くわした。しかも仕掛け担当は、ロバート・サブダの相棒でもある紙名人マシュー・ラインハート。肉食獣が獲物に襲いかかる勢いで飛びついて、そのまま買って帰った。

絵本の内容は、男の子が母親を探して次々モンスターに遭遇するだけ、という単純なもので、セリフもほぼ「マミー?」のみ。けど、さすがセンダック。ちょっと不気味だけどなんだか憎めない怪物たちを見ているだけで、まったく飽きない。センダックの描く怪物って、どうしてこんなに愛嬌があるんでしょうか。

仕掛けも見事のひとこと。ドラキュラがうとうとと居眠りしたり、狼男がズボンを脱がされたり、ミイラ男が棺おけの蓋を開けてむくりと起き上がったり、そのミイラ男の包帯を男の子がつかんでくるくるくるくる回したりする。母親が登場するオチも、ひねりが効いていて楽しい。文句のつけようがない最高の仕掛け絵本だと思う。甥っ子のプレゼントそっちのけで買ってきた甲斐があった。

『かいじゅうたちのいるところ』もポップアップ化してくれないかな。すごく楽しい本になる気がする。
[PR]
by csiumd | 2008-12-10 11:29 |

マイクロバス

小野正嗣の『マイクロバス』。前に読んだ『森のはずれで』よりもさらによかった。

表題作「マイクロバス」と「人魚の唄」という中篇の2本立て。2本とも同じ寂れた漁村が舞台で、アサコ姉という人物が登場するけれど、内容としてはまったく独立した作品。どちらの話にも、閉鎖的な村の空気のようなものが濃厚に漂っている。といっても単なる閉塞感ではなく、良いとか悪いとか、愛とか憎とかがどろどろに溶けて渾然一体になって、もはや見分けがつかなくなっている感じ。なんとなく、中上健次の小説を読んだときの感覚と似たものを感じた。

「マイクロバス」は口のきけない青年・信男が海岸線に沿ってひたすらマイクロバスを走らせる話。信男は口がきけないだけでなく、感情もいっさい表に出ない。それを悲観した両親は、信男を豚小屋に放りこんだり、入水自殺を図ったりしたらしい(たぶん。はっきり語られないから本当のところはわからない)。

そんな幼いころの思い出を、信男はバスを走らせながら回想するわけだけど、この回想の割りこみかたがまた複雑で、だんだんどれが過去なのかどれが現在なのか、なにが本当にあったことでなにが幻なのかがわからなくなってくる。そのうえ、土地そのものに染みついている「記憶」のようなものまで入りこんできて、まさに入り組んだ海岸線に沿って走るバスに酔ったように頭がくらくらしてくる。この否応なしに引きずりこまれていく感じがすごかった。

「人魚の唄」は、自分は人魚だと信じているナオコ婆を介護するヘルパー・セツコの話。これもすごくよかった。自分はもうすぐ海に帰る人魚だと信じている老婆とか、漁師ツル兄の生まれ変わり(と村人に言われている)ウミガメとか、不思議な人たちが出てくるが、「非現実的」な話ではまったくない。この作品もまた現実とそうでないものとの境界があいまいで、「マイクロバス」が車酔いなら、この「人魚の唄」は船酔いのような目眩をおぼえる。

セツコの心のうちとか、ナオコ婆が何を思っていたのかとか、ウミガメは本当にツル兄なのかとか、ナオコ婆とツル兄の関係とか、肝心なことはけっしてはっきり書かれない。そんなあいまいでゆらゆらとした雰囲気なのに、感情や記憶や土地のしがらみのようなものを強烈に感じさせるところが、なんとも言いようのない不思議な作品だと思う。とても好きだ。

「人魚の唄」では、不覚にも最後で涙腺がじわっときてしまった。なんだか最近、涙もろくなっているような気がする。年のせいか?
[PR]
by csiumd | 2008-09-26 13:23 |

『新潮』10月号の源氏物語特集

今年は『源氏物語』の千年紀にあたるということで、あちこちで『源氏物語』にちなんだ企画を目にするが、『新潮』の10月号では、源氏の各巻を現代の作家が新訳・超訳するという興味深い特集が組まれていた。

ラインナップは、江國香織『夕顔』、角田光代『若紫』、町田康『末摘花』、金原ひとみ『葵』、島田雅彦『須磨』、桐野夏生『柏木』。原典にかなり忠実なものあれば、ほとんど別物になっているものもあり、それぞれの個性が出ていてなかなか楽しめた。

いちばんの目当ては、もちろん町田康の『末摘花』。なんでこの人の書く文章はこんなにおもしろいのだろうか。もともと『末摘花』はコミカルな巻ではあるけれど、それにしてもおかしかった。源氏の君という人間のダメさ加減とかろくでなしっぷりが前面に出ていて、その一方で町田康の小説らしい偽善とか真実に対する妙な思い入れも垣間見えて、たいへんおもしろかった。『末摘花』だけといわず、『源氏物語』全篇を超訳してほしい。相当おもしろい小説になると思う。

あと気に入ったのが、角田光代の『若紫』。『末摘花』では時代や人物の設定はほとんど原典のままだったけど、この『若紫』では背景ががらりと変わって、キャバクラらしき店で下働きをする少女が金持ちの色男に身受けされる話になっている。といっても、登場人物の心理の流れは原典を踏まえたものになっていて、少し違った角度で解釈された若紫の心情が描かれている。「なるほど、こういうこと考えていた可能性もあるよなぁ」と思わず納得してしまう。原典を思いきって離れながら、でも別物にはならないバランスが絶妙だった。

この特集みたいな、特定のテーマに沿って複数の作家が競作する形式って、すごくおもしろいと思うのだが、巷ではあまり見かけない気がする。もっとどんどんやればいいのに。
[PR]
by csiumd | 2008-09-12 15:08 |

われらが歌う時

リチャード・パワーズの『われらが歌う時』。今年の個人的ベスト作品の有力候補になりそうな小説だった。上下巻合わせて1000ページを超える超大作。しかも、長いだけじゃなくて密度も相当に濃い。でも、パワーズの小説としては読みやすい部類に入るのではないだろうか。

例のごとくかなり複雑で、ひとことで説明するのは難しいのだが、物理学的な「時間」と音楽を横糸に、人種差別問題を縦糸にして織られた壮大なタペストリー、といったところ。米国に亡命してきたユダヤ人物理学者の父デイヴィッド、すばらしい歌声を持つ黒人の母ディーリア、天才的なテノール歌手となる長男のジョナ、この物語の語り手で、ピアニストとして兄の支えとなる次男のジョセフ、白人の父に反発して黒人過激派運動に身を投じる末娘のルース、という家族5人の物語だ。

この小説は、時間軸のちがう2つの物語が交互に語られる構成になっている。1つ目は、あるコンサートをきっかけにデイヴィッドとディーリアが出会い、結婚して人種差別の壁に直面する両親の物語。2つ目が、母ディーリアの死をきっかけにばらばらになっていく兄妹たちの物語。一見すると別々に進行していく2つの物語だが、過去のイメージがふと出てきたり、逆に未来のイメージが過去に忍びこんだりする。このイメージの交錯と、物理学者のデイヴィッドが語る時間の秘密や、ジョセフがたびたび言及する、どこか時間の流れにも似た音楽の構造があいまって、なんとも不思議な感覚が生まれている。

この小説の大きなテーマになっているのが、米国の人種差別問題。少し前に、バラク・オバマを猿に見立てた日本のCMが人種差別的だと騒ぎになったときには、ちょっと過剰反応ではないかと思ったのだが、とんでもなかった。この小説を読むと、過剰にならざるをえない経緯がいやというほどわかる。なにしろほんの数十年前までは、黒人と白人の結婚は州によっては窃盗よりも重罪で、白人の居住地域を黒人が歩いているだけで通報されていたのだから。あの過剰とも思える反応は、いまでもその差別が消えていないという証なのだろう。

もうひとつの大きな要素が音楽だ。私は音楽の持つ力を信じているが、そんなのは所詮きれいごとにすぎないのかもしれないと思うこともある。「同胞が食いはぐれていて、法の保護さえ得られないような状況で、どうして音楽をのうのうとやっていられるのか?」というルースの言葉は、かなりグサリとくる。それでも、ジョセフが学校の子どもたちと奏でる歌を聴くと(もちろん実際に聴こえるわけではないが)、やっぱり音楽の力を信じたい気もちになる。

人種差別という大きな問題と、音楽、そして時間が複雑に絡みあいながら、物語はある一点へ向かって進んでいく。過去と未来がつながる終幕には、比喩ではなく鳥肌がたった。いつかもういちど読み返したい。これだけの長さを再読するのはそうとう骨が折れるが、一度目とはまた違うものが見えるのではないかと思う。
[PR]
by csiumd | 2008-08-25 19:13 |

宿屋めぐり

こちらも首を長くして待っていた、町田康の新作長編『宿屋めぐり』。「また、どえらい小説書いてきたな」という感想に尽きる。

先日読んだ『四人の兵士』とは反対の方向へ突き抜けている小説だ。『宿屋めぐり』の語り手は、それはもう饒舌にべらべらべらべらとよく語る。しかし、あれほど饒舌に語っているにもかかわらず、というか、饒舌に語れば語るほど、何が嘘で何が真実かが見えなくなっていき(何もかも嘘に思えてくる、と言うべきか)、周囲とのコミュニケーションもどんどん断絶していくところがおもしろい。しかも、そんなふうに口先ばっかりでべらべらしゃべっているようでいながら、実は世間や自分自身の偽善がこれでもかというほど容赦なく暴かれていく、というところが、さらにおもしろいと思う。

主の命を受けて大権現に太刀を奉納するべく旅をする鋤名彦名が、いろいろとたいへんな目(たいへんどころではないかもしれない)に遭う、というのが、この小説のおおまかな筋。鋤名彦名はその道中、ことあるごとに「主はああ言っていた」「主は誰々にこんな制裁を下した」と回想し、みずからの行為を省みたり、できごとの意味を探ったりする。ここで鋤名彦名が言う「主」からは、キリスト教的な「主」が容易に連想される。「善行はこっそりおこなえ」とか「光にいたる道は狭い」とか、いかにもそれらしいことを言ってるし。

ところがこの「主」という人がまた曲者で、ありがたそうな立派なことを言うかと思えば、極悪非道な残虐行為も平気でする。たこ焼きのくだりなんて、残酷きわまりない。もっとも、聖書に出てくる「主」も相当無茶なことをしているので、そう考えると聖書を正しく踏んでいると言えないこともないのかもしれない。町田康的に聖書を語り直したら、こんな感じになるのだろうか。しかし、結局のところ「主」とは何者なのかは、最後までわからない。というか、最後の最後でわからなくなる。一筋縄ではいかない小説だ。

それにしても、町田康の言語感覚って、いったいどうなっているのだろうか。なにからなにまで鍋にぶちこんでごった煮にしたような文章もすごいが、「卵家ポロワ」とか「酒坂石ヌ」(これなんて読むの?「ヌ」ってなによ?)とかいう人名は何をどうしたら出てくるのか。いちど頭のなかを覗いてみたいものだ。
[PR]
by csiumd | 2008-08-18 16:11 |

四人の兵士

首を長くして待っていたユベール・マンガレリの新刊『四人の兵士』。とてもよかった。胸の深いところに残るすばらしい小説だった。

『おわりの雪』と『しずかに流れる緑の川』はどちらも父と息子の物語だったが、今回は東欧から敗走する赤軍の兵士4人の物語。それでも、訥々とした静かな語りのなかに張りつめた感情が凝縮されているところは、今作でも変わらない。

物語は4人が連れになるところからはじまる。創意工夫の得意なパヴェル。力持ちで単純なキャビン。もの静かでやさしいシフラ。そして語り手のベニヤ。4人とも個性的で、愛さずにはいられない人たちだ。

所属する部隊が森のなかで春を待つことになり、4人はあの手この手で極寒の冬を乗り越える。4人だけの秘密の沼を見つけて、毛布を洗濯したり、魚をつまえたり。冗談を言いあったり、賭け事をしたり。ときおり隠し切れない不安が顔をのぞかせるが、その生活は軍隊だということをうっかり忘れそうになるくらい、平穏で満ち足りている。

その平穏な生活も、出発命令が出たことで一気に崩れ、物語は結末に向かって否応なしに押し流されていく。それまでが穏やかだったぶん、どうにも抗えない流れに飲みこまれていくような終盤の展開は圧倒的だった。

何度も「ずっと一緒にいられるか」と確認するキャビン。隊に戻らず沼に残ろうと言い出すパヴェル。何も言わずにただみんなを見つめるシフラ。静かで控えめなベニヤの語りのなかにそれぞれの心情が浮かびあがり、息が苦しくなるような切実さで迫ってきた。

「空は果てしなく、言葉にできない」。物語の最後のモノローグで、ベニヤは丘の斜面に立って空を見上げながらそう語る。その言葉にできないものを、余分なものを削ぎ落とした言葉でこれほどあざやかに描くマンガレリは、ほんとうに稀有な作家だと思う。まだ翻訳されていない作品の出版を心から願う。
[PR]
by csiumd | 2008-08-08 13:46 |